【田中伸宏先生を偲ぶ】
正直、まだ伸さんが議会にいて。
「桂に珈琲飲みに行くぞッ」
…と呼ばれそうな気がして今まで書けなかった。
新緑が芽吹く4月16日金曜日、長い間、議会でお世話になっていた田中伸宏先生が逝った。公私に渡り、苦しい時、いつも助けてくださり。私にとっては議会の先輩というより、オヤジのような存在だった。天真爛漫、情に厚く、明々快々。魑魅魍魎の議会人事に興味もなく、お金に綺麗、いつも人を思い、明るい冗談を振り撒きながら議会を颯爽と歩く『浅草の寅さん』という感じだった。長く議員をつとめていて、これだけ純粋な人を見た事がない。いつの日からか親しみと敬意を込めて、伸さんと呼ばせてもらうようになった。
私の両親が伸さんの後援会幹部だった浅草の尾崎建設社長と懇意だったことから、議員になる前から我が家は伸さんと付き合いがあって、私が初当選した時、誰よりも早く伸さんは私の選挙事務所に来て『おめでとう』と言ってくれた。新人の私などは前日までの選挙活動でヘトヘトだったのに、伸さんは綺麗にダブルのスーツを着て車でやって来た。『5期もやると選挙後なのに随分と余裕だな』と驚いた記憶がある。
以来、23年という長きに渡って伸さんにはお世話になった。私が議会で暴れて一人会派になった時も、一期で生意気にも区長選挙に出馬した時も、伸さんだけが私の味方だった。さすがに呆れたのか晩年は『堀越君も少しは大人になりなよ、五十路なんだから』と役所横の喫茶店『桂』で説教されたこともあったが。笑
伸さんと議会・政治での思い出は沢山あるが、議会以外の一番の思い出は、議会休みに「アメリカをレンタカーで一緒に巡った旅』である。「堀越君はアメリカの本当の姿を知らないだろう」と誘われて行ったのが最初だった。それ以来、23年の間に全部で10回近くは行っただろうか、夏休み等を利用して、レンタカーを借り、1泊35$くらいの安ホテルに泊まり、アメリカの自然公園や田舎町を巡る。もちろん全て自費である。そういえば、金を節約するために二人でサンフランシスコ郊外のモーテルのダブルベッドで一緒に寝たこともあったなあ
不思議な事だが、さほど英語が得意でもない伸さんに実は多くのアメリカ人の友人がいる事を知って驚いた。「のぶひろ〜」と懐かしそうに走り寄って抱きつく白人女性、「ヘイ、ノーブ」と笑いながらハグするラテン系男性も…。日米の学生のホームステイ事業に尽力した『世界の台東区議会議員・田中伸宏』の本領発揮である。笑
伸さんとロスやニューヨークという都会ではなく、聞いた事もないアメリカの田舎町を巡ると、『白人社会の裏表』、アフリカ系やネイティブアメリカン、アーミッシュといった『マイノリティの悲しい歴史や生活』を垣間見ることができた。そして、その歴史に根ざしたアメリカの『政治・コミュニティ・都市計画』の有り様を伸さんは丁寧に説明してくれた。それが、私の後の政治活動にどれだけ役立ったことか。感謝しかない。
【議会で「アメリカでは…」なんて偉そうに語る奴もいるが、政治は現物を見て感じないとダメだなあ。理屈捏ねてる暇があるなら飛行機に乗ってアメリカに行った方が早い。そこで暮らしてる人達と話して触れ合う。そうする事によって、アメリカに無条件降伏した代わりに平和と繁栄を貰った祖国・日本の現実が分かるんだよ。】
伸さんの言葉だ。至極名言。
病魔と闘っていた伸さんに、大統領になったトランプの選挙応援の帽子をお土産に買ってきたことがある。伸さんは嬉しそうに、『またアメリカに行きてえなあ。あと4州で51州を全て制覇できたのになあ』と、以前、アメリカのダイナー(食堂)で話した事を繰り返した。そして、その思いも叶う事なく、春の爽風のように逝ってしまった。
残り4州かあ。。。
行こうぜ、伸さん。
俺が連れてくよ。
また、一緒にロスからI-15Nでベガスに走ろう。
そして、狭い議会は忘れて世界を語ろう。
あの時間で、俺はどれほど学んだことか。
伸さん、ありがとう。
また、いつか必ず会いましょう。
それまで、少しの間、お別れです。
さようなら。
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