Breaking 『3月第2週』(毎週更新)
今週、5日連続で開催された
区議会の予算委員会審議も終了
オール台東
区議会議員選挙、区長選挙に向けて前進中
【オール台東】
何故、彼らは教育に介入したがるのか?
敢えて彼らと置き替えますが…
『教育の自治』を侵して政治的思想を子供達にうえつけようとするのは『いつか来た道』の始まり。タモリさんが指摘する『新しい戦前』へと続く全体主義の恐い時代への誘導。
議員になった当初、私は「教育」を議会で語り合う時、学校などの事業について、教育現場の声を聞きながら、ただ単純に議員としての意見を言えばよい程度に考えていました。しかし、その議論の前提には「公的役割」と「私的領域」の狭間で、「教育の自治」という独立性が担保されなければなりません。それを改めて認識したのです。
かつて、ルソーが書いた「エミール」で教育が説かれた時。彼は教育に関して、それまでにない斬新な発想を提供しました。一つは教育の目標として人間の自然性という概念を持ち込んだこと。もう一つは教育の対象としての「子ども」を発見したことです。ルソーは「教育」を人間としてふさわしい生き方ができるように導くことだと説いたのです。議員になって、20年の歳月を経て、ようやく私は彼が説いた意味を理解できるようになりました。
そもそも「教育 Education」というフランス語を考えるとラテン語の「引き出す」あるいは「導き出す」という意味の言葉を語源としているそうで。つまりは人間として本来誰にもそなわっているもの、それを引き出すのが教育だというのです。これを実践するためには、圧倒的な知識と情報を備えた教育技術を要した「公」の役割と、それを「教育の独立性」を担保された場所で受益・選択していく「私・子」の役割があるわけです。
つまりは、ルソーが説く「人間のあり方」とは、「学問・芸術論」や「人間不平等起源論」で展開された自然状態における人間、すなわち「自然人」とパラレルなものと考えてよいのかと。議員として様々な議論を繰り返しながら、私はそう思うようになったのです。誤解を恐れずに書けば、この前提となる「教育論」を共有していないから、時折、議会で「政治が教育に介入しているような発言」が出てくる。
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